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VERYONE

作品

「GRAFFITI IN OSAKA」
大阪には東京や他の都市とは異なるグラフィティの文化があります。「GRAFFITI IN OSAKA」というテーマを立て、⻑年、大阪のグラフィティシーンを観察し続けてきたVERYONEと®寫眞によるアーカイブ資料と作品を展示します。

寺田町の雑居ビルの一角にVERYONEの営むグラフィティショップ「STOPOVER」はある。ステッカーだらけの扉の奥には、色とりどりのスプレー缶やオリジナルの雑貨、アートワーク、信楽焼の狸の置物、自転車、スピーカーが並び、無秩序で居心地の良い不思議な空間が広がっている。本展示空間の中央に建造された小屋はそんなSTOPOVERのエッセンスが詰まった場所をイメージして作られたものだ。
STOPOVERの名前はアメリカ人ライターが命名したもので「世の中はストップしすぎている。ストップしたら終わりだ」という意味があるのだという。
大阪でグラフィティライターが出現し始めたのが93年頃。彼らはいわば大阪グラフィティカルチャーの第一世代であり、VERYONEは彼らに次ぐ世代として96年からライター活動をはじめた。
グラフィティの魅力はVERYONEの探求心を突き動かした。世界のグラフィティカルチャーを求めてサンフランシスコ、チェコ、スロバキア、スペイン、ハンガリーなど各地を訪れたというが、その中でもアジアのグラフィティについての知見の深さは驚異的だ。
2004年には、国内外のグラフィティとライターを取材したグラフィティ専門誌『HSM』を刊行。約20年にわたって定期刊行している。そんなVERYONEによると今、アジアでは「インドネシアのグラフィティが熱い」らしい。
日本のグラフィティカルチャーは2005年頃を境に衰退しているというが、その理由はテクノロジーの進化と街の有様の変化だ。社会の秩序とルールはもはや無秩序といってよいほど際限なく浸透し、どこにでも性能の良い監視カメラが置かれ、市民の安全と平和が担保される。その一方で、余白や遊びのない窮屈な街にグラフィティの居場所は失われていったという。
果たしてこれはグラフィティだけの話だろうか?
路地裏の喫煙者、道端で遊ぶ子どもたち、シャッターを背に眠る赤ら顔の老人、ラジカセから流れるヒップホップ、「絶対に女性一人では歩いちゃいけないよ」と言われるようなストリートにしか居場所のなかった人々は一体どこに行けばよかったのか。現代のストリートは、ルールに反する遊びをどこまで許容してくれるのだろう?
グラフィティは興味のない人にとってはただの「落書き」であるし、そもそも社会に褒められる類の表現ではない。現代アートのように、書いたものがお金に変わるわけでもない。しかも、自由に書ける壁はごくわずかしか残されていないというこの街のなかで、それでも書き続けるライター達の表現に対する熱量に圧倒される。VERYONEはSTOPOVERやHSMを通じて、“表現せざるを得ない彼ら” に寄り添っているのではないか。
日本ではイリーガルな印象の強いグラフィティだが、たとえばアメリカでは40代、50代になったライター達が休日に街のリーガルスポットに集まって合法的にグラフィティを楽しむような姿があるのだという。そこにはひとつの “カルチャー” としてのグラフィティがある。「いつか日本でそうした光景をつくるのが、もしかしたら自分の役目かもしれない」とVERYONEは独白する。
芸術祭という公共のフェスティバルでグラフィティを展示すること。ビジネスエリアの船場を会場に選んだこと。その結果、実に多様な背景を持つ人々がグラフィティと接続すること。そのすべてがVERYONEの思い描くグラフィティの未来と軽やかにつながっているのかもしれない。

​プロフィール

1996年、グラフィティライターとしての活動を開始。
アジア、アメリカ、ヨーロッパなど世界17ヶ国にて壁画制作を手掛け、ストリートをリアルに表現する独特のスタイルは各国で高い評価を得る。
「NEWS WEEK」SPECIAL EDITIONでの特集、アメリカ映画「BOMB IT themovie」でのインタビューは多くの反響を呼び注目を集めた。
愛知万博/水戸芸術館「X-COLOR」/横浜「桜木町ON THE WALL」、シカゴで行われた「Graffiti Jam MEETINGOF STYLE」、大阪「CrazyCrimers」など、多岐に渡る活動は国内外のアーティストに多大な影響を与える。
圧倒的な表現力に加え、その研ぎ澄まされた精神性は、グラフィティを通して今も尚世界を網羅し続けている。2004年、自らが監修するGRAFFITI MAGAZINE “HSM” を創刊。

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